重要文化財をミラーレスカメラで撮影
歴史好きにはたまらない、大阪城の貴重な重要文化財、多聞櫓・千貫櫓・焔硝蔵の特別公開が2020年、春季と夏季に行われる予定でしたが、今年はコロナウイルスの影響で中止となっていましたが、3/20から再開されることになりました。その内部をご紹介したいと思います。
多聞櫓(たもんやぐら)
敵の侵入を防いだ櫓をくぐり、千貫櫓側から撮影。大阪城の様々なところに桜を見ることができる。
大手口枡形(ますがた)の石垣の上に建つ櫓。徳川幕府による大坂城再築工事により寛永5年(1628)に創建されたが、天明 3年(1783)の落雷によって全焼し、嘉永元年(1848)に再建され、その名称は戦国時代の武将松永久秀(まつながひさひで)が大和国(奈良県)の多聞城で、土塁や石垣上に築かれた長屋状の形式の建物(多聞)を初めて築いたことに由来するといわれる。現存する多聞櫓の中でもこの多聞櫓は最大規模で、高さは約 14.7 メートル、建築総面積は約 710.25 平方メートル。
続櫓には、いざというときに兵士たちが寝泊りするためにつくられた部屋。部屋は20畳〜12畳で、6部屋あった。
渡櫓は外から見るより高い。下の大門の扉の上には、敵を上から攻撃する「槍落とし」の装置がある。
渡櫓には大阪城石垣の刻印をはじめ、様々なものが展示されていた。
多聞櫓から千貫櫓まですぐに行けるよつながっている。
千貫櫓(せんがんやぐら)
多聞櫓の横にある、隅櫓。徳川幕府による再建工事、元和6年(1620)以降、一度も焼失していない貴重な大阪城最古の建造物。
大手門口から見た千貫櫓
大阪城の大手口(おおてぐち)を守る重要な隅櫓(すみやぐら)で、西側と南側は堀に面し、大手門に向かう敵を側面から攻撃することができた。二の丸北西に現存する乾櫓(いぬいやぐら)と同様に大阪城最古の建造物で、いずれも工事責任者は、茶人としても有名な小堀遠州(こぼりえんしゅう)。具体的な場所や規模は不明ながら、「前身となる豊臣秀吉築造の大坂城にも千貫櫓はあり、さらにそれよりも前、織田信長が大坂を領していたころにも千貫櫓はあった。名称の由来に関しては、織田信長がこの地にあった大坂(石山)本願寺を攻めた際、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と兵士たちの間で噂されたという逸話が残っている。面積は1階が約217.26 平方メートル、2階が約「162.95 平方メートル、高さは約 13.5メートルである。
外から見るよりも内部は広く感じた。
「銃眼」から火縄銃で侵入してくる敵を狙った。
火縄銃を手に取って実際にかまえることもできました。
焔硝蔵(えんしょうぐら)
西ノ丸庭園内にあり、江戸時代に作られた火薬専用の倉庫。面積は約171.9平方メートル、高さ約5.4メートル。石材は全て花崗岩でできています。万治3年(1660年)の土造火薬庫の大爆発があり、幕府が新たに花崗岩で工夫して築造したもので、近年資料が見つかり、貞享2年(1685年)の築造と判明したようです。
このような構造の焔硝蔵で、江戸時代のまま残っているのはこの一棟のみだそうです。
床・壁・天井・梁の全ては花崗岩でできており、厚さは2.4mある。