大阪城公園駅から
大阪城公園へいくのにはやはり駅名が「大阪城公園駅」なんだから、この駅から大阪城に行くのがいいと、誰もが思うのではないでしょうか。私も最初そう思っていました。
大阪城公園の駅はなぜか広く感じてしまう。ホームでは、法螺貝(法螺貝)の発車メロディーが流れるようになっていて、戦国時代の戦・大坂の陣を想起させるためだそうだ。環状線では発車メロディーが駅ごとに違って、ちなみに桜ノ宮駅は大塚愛さんの「さくらんぼ」。
改札を出たところの吹き抜けホールには、西山英雄さんの作品、陶板レリーフ「なにはの精華」が3壁面に、そして司馬遼太郎さんのレリーフが設置されていて、大阪城公園のメイン最寄り駅の意気込みが感じられます。
司馬遼太郎さんのレリーフの文章のタイトルは「大阪城公園駅」。わざわざこのレリーフを見るためにこの駅に来る方もいるようで、駅員さんに文章の全文をいただいた人もいるみたいです。
駅を出ると右手に大阪ビジネスパーク群(OBP)が見える。
駅前には「JO-TERRASE OSAKA」ジョーテラス大阪という飲食店街があって食事やカフェを楽しむことができる。またここにもスターバックスがある。
飲食店街をこえ、噴水の向こうには大阪城ホールがあって、その手前を左に曲がると大阪城・梅林・桃園の表示が挙げられている。
ちなみに大阪ビジネスパーク駅からは、噴水右手の大阪城新橋を渡ってきます。ほぼ大阪城公園駅と同じルートで天守閣にいくことができます。
大阪城ホールを右手に見てまっすぐ進むと、大阪城の外周(外堀があるところ)にたどり着くと、表示板があって天守閣へは右との案内がある。
青屋門
右へ曲がってすぐのところに、青屋門口があって登っていくと青屋門がある。
青屋門は徳川幕府による大坂城再築工事によって築かれたもの、明治維
新の大火によって被災したらしい。その後陸軍によって改築されたが昭和 20年(1945) の空襲で再び大破したようだ。昭和44年(1969)、大阪市が残材を用いて再建したのが現在の門である。案内板によると現状は上部に櫓【やぐら】を乗せる独立した櫓門だが、江戸時代には上部の櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く延びていた。枡形とは敵の侵入を防ぐための四角い区画のことで、青屋口の枡形は、二の丸の他の各口とは異なり外側に突き出す出枡形【でますがた】だった。さらにその外側はかつて水堀となっていて、橋が架かっていた。この橋は押し出し引き入れ自在のいわゆる算盤橋【そろばんばし】で、非常時以外は引き入れたままになっていた「青屋」の名については、戦国時代この地にあった大坂(石山) 本願寺の寺内町「青屋町」に由来するとのこと。
そして青屋門をくぐるといよいよ天守閣に通じる極楽橋にたどりつくのだが、くぐってすぐ左側に梅林がある。
極楽橋
青屋門をくぐって右へ行き左側に極楽橋がある。
極楽橋は豊臣秀吉が天正11年(1583)に築造を開始した大坂城でもこの付近に架けられた橋。案内板によると、大坂夏の陣による落城後、徳川幕府が再築した時にも架け直された。江戸時代には幅約8メートル (4間)の木造で、慶応4年(=明治元年、1868)に起こった明治維新の~ 大火によって焼け落ちたが、97 年後となる昭和 40年(1965)に再架橋された。現在の極楽橋は長さ約 54メートル、幅約 5.4メートルで、橋脚【きょうきゃく)・主桁【しゅげた】を鉄筋コンクリート造としつつも、上部は歴史的景観に配慮し伝統的な擬宝珠高欄【ぎぼしこうらん】としている。「極楽」とは仏教で説かれる安楽の世界をさすことから、戦国時代この地にあった浄土真宗本願寺派の本山、大坂(石山)本願寺以来の名称ではないかと考えられているそうだ。
山里丸
極楽橋を渡るとそこには不思議な空間がある。そこは山里丸と言って、本丸の一段下にある曲輪で、山里の風情をかもし出す松林や、桜、藤などの木々がしげり、豊臣時代、いくつもの茶室が建っていて。秀吉は、要人をもてなす場、家族のくつろぎの場として山里丸を利用したようです。
また築城に多くの大名が携わるために、石垣が他の大名の持ち場に紛れ込む事態を避けるために石垣に刻印を刻んだとされる刻印石広場があり、そして大坂夏の陣で秀頼とその母淀君が自害したとされる、「秀頼・淀君自刃の地の碑」がある。
帯曲輪
また、江戸幕府による大坂城再築時に設けられた帯曲輪があって、出入口が狭くて気付かれにくく、兵士を隠す場所で、一般に「隠し曲輪」と呼ばれたらしい。また一時期幕府の焔硝蔵(火薬庫)が置かれたこともあり、立ち入りが厳しく制限されていたことから、ここに秘密の抜け穴があるとの伝説も生まれらしい。なお石垣の築造を担当した加藤家(伊予大洲藩会)、小出家(丹波園部藩・但馬出石藩)の刻印を間近に見ることができる。