初心者のための写真講座・ミラーレスカメラで写真を撮ろう

大阪城へは谷町四丁目から

大阪城の正門

 

大阪城の正門である大手門へは、大阪メトロの中央線、谷町線、谷町四丁目駅が便利です。「1-B」出口を出て東へ進むと、左手に大阪府警本部があり、右手にNHK大阪と大阪歴史博物館があり、その交差点を渡ると大阪城公園です。

左から、大阪歴史博物館、NHK大阪、大阪府警

大手門前芝生広場

信号を渡ると、左手はゆったりとした芝生の広場になっていて、市民の憩いの場となり、大阪城公園の広さを感じます。そして左に曲がり真っ直ぐ進むと右手に大手門が見えてきます。

南外堀

その大手門の右側には南外堀がありますが、この外堀は朝陽の撮影ができるベストポジションです。

大阪城二の丸の南に位置する堀で、石垣の総延長は約2キロメートル、堀の最大幅は約75メートルあり、寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築第3期工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造されたようです。案内板によると、幕府の命令によって動員された大名は肥前佐賀藩鍋島家・加賀金沢藩前田家・因幡鳥取藩池田家・筑前福岡藩黒田家など57家。内側の石垣上には東から一番櫓から七番櫓まで七棟の隅櫓が建造され、櫓は明治維新の大火により四番・五番・七番を失い、さらに第二次大戦の空襲により二番・三番を失って、現在は一番櫓と六番櫓だけが残っているそうです。

朝陽が顔をのぞき、水面には朝焼けの空の色が反映されています。左側にシルエットで見えるのは重要文化財の六番櫓です。

桜の名所としても有名な大阪城公園、南外堀の周囲にも桜並木があります。

この辺りはランニングをする方が多く、奥には紫陽花園もあります。

大手門

大阪城の正門、大手門は重要文化財に指定されており、徳川幕府によって再建されています。


城の正面を大手(追手)といい、その入口を大手口 (追手口)、設けられた門を大手門(追手門)とよぶそうで、案内板によると、正面左右の親柱【おやばしら】の間に屋根を乗せ、親柱それぞれの背後に立つ控柱【ひかえばしら】との間にも屋根を乗せた高麗門【こうらいもん】形式である。屋根は本瓦葺【ほんがわらぶき】で、扉や親柱を黒塗総鉄板張【くろぬりそうてついたばり】とする。開口部の幅は約 5.5 メートル、高さは約 7.1 メートル。親柱・控柱の下部はその後の腐食により根継【ねつぎ】がほどこされているが、中でも正面右側の控柱の継手【つぎて】は、一見不可能にしか見えない技法が駆使されている。門の左右に接続する大手門北方塀・大手門南方も重要文化財に指定されているようです。

正面左右の親柱の間に屋根を乗せ親柱の背後に立つ控え柱との間にも屋根を乗せた高麗門形式

市太聞跡(いちたもんあと)

大手門を入り、左側には石段があり、その石段は市が開かれていた礎石です。

江戸時代、大坂城の大手口枡形には、多聞櫓の他に南側にも多聞櫓が建っていて、定期的に商人の入場が許可され、この櫓の中で、一年交替で城に詰めた旗本(大番衆)が日用品を調達するための市が開かれたことから、市多聞という名がついたそうです。しかしこの櫓は明治維新の大火によって焼失し、現在は礎石のみしか残っていません。

大手口枡形の巨石

大手門を入ると、正面に大手口枡形の巨石(おお てぐち ます がたきょせき)が。

枡形とは城の主要な出入口に設けられた四角い区画のことで、 敵の進入を食い止める役割を果たした。築城技術の進歩にともなって強固な石垣造りのものがあらわれ、大阪城の大手口桝形で は城の威容を誇示する巨石が数多く使用されている。大手門をくぐって正面に位置する大手見付石【おおてみつけいし】は、表面積が約 29 畳敷(47.98 平方メートル)で城内第4位、左の大手二番石【おおてにばんいし】は約 23 畳敷 (37.90 平方メートル)で第5位、右の大手三番石【おおてさんばんいし】は約 22 畳敷(35.82 平方メートル)で第8位、いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島【しょうどしま】と推定されている。現存する大阪城の遺構は豊臣時代のものではなく、元和6年(1620)から約 10年にわたった徳川幕府再築工事によるもので、石垣は将軍の命令を受けた諸大名が分担して築いた。この個所は当初肥後熊本藩主加藤忠広【かとうただひろ】が築き、のちに筑後久留米藩主有馬豊氏【ありまとようじ】が改築した。(案内板)

多聞櫓(たもんやぐら)

大手口枡形の巨石の横には重要文化財の多聞櫓(たもんやぐら)があり、現存する多聞櫓で最大級である。


大手口枡形【ますがた)の石垣の上に建つ櫓で、大門【おおもん】の上をまたぐ渡櫓【わたりやぐら」と、その右側に直角に折れて接続する続櫓【つづきやぐら】によって構成される。案内板によると、現存する多聞櫓の中でもこの多聞櫓は最大規模で、高さは約 14.7 メートル、建築総面積は約 710.25 平方メートルある。渡櫓内部には 70 畳 敷を最大とする部屋が4室、続櫓内部には廊下のほか9畳・12 畳・15畳の部屋が計6室あって多数の兵や武器をたくわえることができ、枡形の内側に多くの窓があり、また大門をくぐる敵を真上から攻撃する「槍落し」の装置が設けられるなど、高い防御能力を備えており、大阪城の二の丸には京橋口・玉造口にも多聞櫓があったが、現存するのはここだけとなっているそうです。

 

千貫櫓(せんがんやぐら)

重要文化財の千貫櫓は大阪城の大手口【おおてぐち】を守る重要な隅櫓【すみやぐら】 であって、西側と南側は堀に面し、大手門に向かう敵を側面から攻撃することができたそうだ。案内板によると、創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620)で、戦後の解体修理工事の際、墨書で「元和六年九月十三日御柱立つ」と上棟式の日を記した部材が見つかった。二の丸北西に現存する乾櫓 【いぬいやぐら)と同様に大阪城最古の建造物であるそうです。面積は1階が約 217.26 平方メートル、2階が約162.95平方メートル、高さは約13.5メートル

南仕切門跡・太鼓櫓跡(みなみ しきりもんあと・たいこやぐら あと)

 

二の丸の西と南の区域は石垣によって仕切られ、通路にあたるこの個所に建っていたのが南仕切門。門の西側石垣の上には太鼓櫓とよばれる二層の櫓があり、ともに徳川幕府による大坂城再築工事の最終段階にあたる寛永5年(1628)に創建されたと考えられるようです。太鼓櫓は城内の櫓のうち最も小規模で、中に太鼓が納められていて、ここには太鼓坊主とよばれる僧形「そうぎょう」の役人が交替で詰め、彼らは香(こう】をたいて時刻を計り、城内勤務の大名や旗本以下の召集や交替、あるいは緊急時に太鼓を打ち鳴らしていたようです。いずれの建物も慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の大火によって焼失したそうです。

西大番頭小屋跡(にしおおばんがしらこやあと)

南仕切門を通って、右側に行くと煉瓦造りの塀があり、現在その内側には大阪城公園場内詰所となっている。

江戸時代、徳川将軍直属の部隊の一つである大番は、1組50騎の計12組からなり、それぞれ部隊長である大番頭に率いられ、うち2組が1年交替で大坂城本丸の警備に。彼らの小屋(宿営)は二の丸南側一帯に東西にわけられて置かれ、大手口枡形の南東側となるこの一帯には西大番頭の小屋があり、敷地には大番頭本人やその家臣、幕府から配属された与力・同心の居住する建物が立ち並んでいたようです。明治維新後、跡地には陸軍関連施設が建てられ、その頃の門柱や左右の塀がわずかに残る。

六番櫓(ろくばんやぐら)

さらに奥へ進むと、南外堀から見えていた重要文化財の六番櫓がある。

二の丸南側の石垣上には、2層2階でほぼ同規模の隅櫓【すみやぐら】が、東から西へ一番から七番まで建っていたようです。案内板によると、この櫓は東から六番目であることから「六番櫓」といういい、外側にあたる南面と西面に石落しを1か所ずつ設け、窓は外側を中心に 26、鉄砲や矢を放つための狭間【さま】も多数あけられ、外敵に備えた堅固なつくりをなしています。創建は徳川幕府による大坂城再築工事の最終段階にあたる寛永5年(1628)で、上層の破風【はふ】を飾る東西の懸魚【げぎょ】のうち、西側の懸魚の裏側に「寛永五番辰拾月吉日」と書かれている。面積は1階が約 224.16平方メートル、2階が約133.43 平方メートル、高さは約15.4メートルあるそうです。

南外堀から見る六番櫓

修道館

六番櫓から桜門に進んでいくと、右手には武道の練成道場、修道館が見えてきます。

大阪市立修道館は、柔道・剣道・なぎなた・弓道などの武道の練成道場として設立。

豊國神社

桜門の前には豊臣秀吉ゆかりの豊國神社があり、大阪城天守閣を見つめる豊臣秀吉の像が。

 

空堀(からほり)

桜門の両脇は空堀となっていて。何故空堀なのかは不明であるそうです。

桜門の東側は春には桜が咲き誇る。

本丸を囲む内堀は、東から北、さらに西にかけて水掘となっているのに対し、南とそれに続く西にかけては水のない空堀となっています。案内板によると、ここは寛永元年(1624)、徳川幕府による大坂城再築工事の際に築かれたもので、当初から空掘であった。これに先立つ豊臣秀吉築造の大坂城でも本丸の南は空掘になっており、大坂の陣で徳川方が理めたわけではない。なぜここだけ空堀としたのかは不明であるようです。

桜門(さくらもん)

「桜門外の変で有名な桜門」。桜門は本丸の正門にあたり、大阪城の天守閣が見えます。


本丸の正門にあたる。徳川幕府による大坂城再築工事が行われていた寛永3年(1626)に創建されたが、慶応4年(=明治元年、1868)に起きた明治維新の大火によって焼失し、明治20年(1887)に陸軍が再建し現在に至る。左右の塀も桜門再建にあわせて新築されたが、戦後に台風の被害を受けて倒壊し、昭和44年(1969)に復元されている。桜門の名称は豊臣秀吉が築いた大坂城以来のもので、当時二の丸に桜の馬場とよばれる場所があったことから、門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられる。ただし豊臣時代の大坂城は、徳川幕府再築の今の大坂城とは地形や構造が大きく異なり、桜門を含む本丸への入口は現在よりも西にあり、入る方向も違っていた。なお門の両脇に見える巨石は龍虎石【りゅうこいし】と呼ばれ、江戸時代には、雨が降ると右に龍の姿が、左に虎の姿がそれぞれ現れるといわれた。

銀明水井戸の井筒(ぎんめいすいのいど)

この井筒は元来、本丸に建つ旧陸軍第四師団司令部【だいよんしだんしれいぶ】庁舎(旧大阪市立博物館)の裏手にある銀明水(銀水)井戸のものである。銀明水井戸は徳川幕府再築の大坂城本丸に設けられた5つの井戸のうちの一つで、本丸御殿【ほんまるごてん】台所の裏に位置し、本丸を警備する役人たちの飲料水として用いられた。大坂城内で最も格式の高い井戸の一つで、「金」「銀」などを井戸の名称に冠して重要性を表現した例は各地に見られる。昭和6年(1931)、大阪城天守閣の復興と同時に行われた第四師団司令部庁舎の新築にあたり、井筒と周囲の敷石が現在地に移され、飲料用の水道水が引かれた。なお現在の金明水は小天守台上にあるが、これは元来「黄金水」と呼ばれたもので、金明水井戸はこれとは別に本丸内にあった。今は配水池に埋もれていて目にすることができない。(案内板)

 

大手口枡形の巨石(おおてぐちますがたのきょせき)

 

枡形とは城の主要な出入口に設けられた四角い区画のことで、敵の進入を食い止める役割を果たした。築城技術の進歩にともなって強固な石垣造りのものがあらわれ、大阪城の大手口桝形では城の威容を誇示する巨石が数多く使用されている。大手門をくぐって正面に位置する大手見付石【おおてみつけいし)は、表面積が約 29 畳敷(47.98 平方メートル)で城内第4位、左の大手二番石【おおてにばんいし】は約 23 畳敷 (37.90 平方メートル)で第5位、右の大手三番石【おおてさんばんいし】は約 22 畳敷(35.82 平方メートル)で第8位、いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島【しょうどしま】と推定されている。現存する大阪城の遺構は豊臣時代のものではなく、元和6年(1620)から約 10年にわたった徳川幕府再築工事によるもので、石垣は将軍の命令を受けた諸大名が分担して築いた。この個所は当初肥後熊本藩主加藤忠広【かとうただひろ】が築き、のちに筑後久留米藩主有馬豊氏【ありまとようじ】が改築した(案内板)

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