京阪・大阪メトロ 天満橋から
大阪城までの最寄り駅は、大阪城公園駅・大阪ビジネスパーク駅・森ノ宮駅・天満橋駅・谷町四丁目駅とたくさんありますが、どの駅からも20分くらいかかります。正面玄関の大手門から入るには谷町四丁目駅からが一番近く、外堀、千貫櫓・多聞櫓・大手門が一度に見られます。
大坂城の本丸に唯一築かれた帯曲輪で、江戸幕府による大坂城再築時のものである。出入口が狭くて気付かれにくく、兵士を」 隠す場所だったことから、一般に「隠し曲輪」と呼ばれた。 一時期幕府の焔硝蔵(火薬庫)が置かれたこともあり、立ち入り が厳しく制限されていたことから、ここに秘密の抜け穴があるとの伝説も生まれた。なおここでは、石垣の築造を担当した加藤家(伊予大洲藩、会)、小出家(丹波園部藩・但馬出石藩、)の刻印を間近に見ることができる。(案内板)
私のオススメは天満橋から大阪城のルートでする。日の出前後の風景が大坂橋や内堀から撮れるからです。
土佐堀通をOMMビルに沿って東へ進むと寝屋川橋に。橋を渡ると信号を渡り京橋、もしくは陸橋の大坂橋を渡ると、大阪城公園の京橋口にたどり着く。
京橋と大坂橋
京橋といえば、いまではJR、京阪、大阪メトロが乗り入れるターミナル駅として知られていますが、その名は、大阪城の北側の寝屋川にかかる小さな橋「京橋」に由来するそうです。
京街道の起点にあたり、京都へ通じる橋という意味から名づけれ、その街道は徳川時代を通じて野崎まいりの人々でにぎわいました。
この橋の誕生は豊臣秀吉の時代といわれ、徳川時代には天満橋・天神橋などとともに公儀橋として重要視され、高欄擬宝珠(ぎぼし)つきの立派な橋であったようです。
幻の橋と言われた(大阪市HP)は、昭和48年に大阪城公園と毛馬桜宮公園を結ぶ自転車・歩行者専用橋として復活。主橋梁部は、方杖式ラーメン橋と呼ばれるユニークな形式らしい。
寝屋川橋は昭和4年(1929)にゲルバー式鋼鉄橋として架けられ、現在も交通量が多く重要な橋の一つです。
大阪砲兵工廠と筋鉄門跡
大阪砲兵工廠は、大日本帝国陸軍の兵器工廠であり、太平洋戦争の敗戦まで、大口径の火砲を主体とする兵器の製造を担ったアジア最大の軍事工場。
筋鉄門跡(すじがねもん)
元和6年(1620) に開始された徳川幕府による大坂城再築工事では、同年の第1期工事により二の丸の北外側に北外曲輪 (三の丸)が築かれた。筋鉄門はその西の入口で、門扉は筋状の鉄板で補強されていた。ここは鴫野方面への通路にあたることから一般の通行が許され、特に鴫野の弁財天の縁日には多数の市民がここを通った。門は明治維新後も残り、北外曲輪跡に設置された軍事工場(大阪砲兵工廠)の正門とされたが、現在は左右の石組だけが残る。(案内板)
大坂橋からは天満橋方面・大阪ビジネスパーク・大阪城が見える。
京橋口
京橋、大坂橋を渡ると手前に外堀や桃園に行くことができる入り口がある。その門を過ぎて進むと天守閣に向かう、京橋口がある。
大阪城の西北の出入口。 北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」が架けられていることから「京橋口」もしくは「京口」と呼ばれた。戦前までは江戸時代以来の京橋門が残り、枡形には大手口と同様に多聞櫓もあって、大阪城の名所となっていたが、昭和20年(1945)の空襲によって全焼した。(案内板)
京橋口を入って直ぐに、巨石がある。案内板によると
京橋口枡形の内、京橋口を入って正面に見えるのが、表面積が
畳約33畳敷(54.17平方メートル)にもなる城内第2の巨石「肥後石」である。東海の名手加藤肥後守清正が運んできたと伝えられてきたが、実際は徳川幕府による大坂城再築時に、この区域の石垣築造を担当した備前岡山藩主池田忠雄によって運ばれた。肥後石の左手が京橋口二番石で、表面積が畳22畳敷 (3600平方メートル)の、城内第7位の巨石である。(案内板)
京橋口枡形(きょうばしぐちますがた)
京橋口を入り進んでいくと、こんなところになぜ「こま犬」がと思って、案内板を見ると、中国友好記念の「こま犬」であるらしい。
こま犬
一対の「こま犬」は中国・明【みん】の時代の文化遺産で、それぞれ高さ約3メートル、重さ約 2.9トンある。日中戦争の最中に日本へ運ばれ、当時陸軍第四師団司令部のあった大阪城内に置かれた。戦後も長らく山里口出枡形【やまざとぐちでますがた】の東付近に置かれていたが、昭和 59 年(1984)、中国政府により改めて大阪市に寄贈されることとなり、現在の場所に移された。以来この「こま犬」は、両国人民の友好関係を促進し、友誼を深める象徴となっている。脇に建立された記念碑には、変わらぬ中日友好への願いをあらわした「中日友好 萬古長青」の文字が刻まれており、これは当時の宋之光中華人民共和国駐日本国特命全権大使の筆になる。(案内板)
大阪城内堀
内堀にはたくさんの水鳥がいて、朝日も水面に映り、素敵な撮影スポットだと思っています。
本丸を取り囲む堀で、南側を空堀とするほかは水堀となっている。
寛永元年(1624) 開始の徳川幕府による大坂城再築第2期工事により、豊臣時代の本丸に盛り土をほどこして石垣が築造された。
幕府の命令によって動員された大名は豊前小倉藩細川家・加賀金沢藩前家・因幡鳥取藩池田家・筑前福岡藩黒田家をはじめとする59家で、総延長は約2.7キロメートル、東側石垣の高さは水面から約24メートルに達する。本丸内には堀に面する石垣の角を中心に3層の櫓が11棟、2層の櫓が2棟そびえていたが、明治維新の大火により全て焼失した。(案内板)
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内堀からは大阪城天守閣が御座船越しに見える。
極楽橋
内堀を右手に見ながら進んでいくと天守閣へ通じる、極楽橋がある。
山里丸と二の丸とを結ぶ橋である。豊臣秀吉が天正11年(1583)に築造を開始した大坂城でもこの付近に架けられた橋を極楽橋と呼び、大坂夏の陣による落城後、徳川幕府が再築した時にも架け直された。江戸時代には幅約8メートル (4間)の木造で、慶応4年(=明治元年、1868)に起こった明治維新の~ 大火によって焼け落ちたが、97 年後となる昭和 40年(1965)に再架橋された。現在の極楽橋は長さ約 54メートル、幅約 5.4メートルで、橋脚【きょうきゃく)・主桁【しゅげた】を鉄筋コンクリート造としつつも、上部は歴史的景観に配慮し統的な擬宝珠高欄【ぎぼしこうらん】としている。「極楽」とは仏教で説かれる安楽の世界をさすことから、戦国時代この地にあった浄土真宗本願寺派の本山、大坂(石山)本願寺以来の名称ではないかと考えられている。(案内板)
山里丸
内堀に囲まれた大坂城本丸のうち、天守北側の一段低い区域を特に山里丸(山里曲輪【くるわ】)と呼ぶ。
豊臣時代には、山里の風情をかもし出す松林や、桜、藤などの木々がしげり、いくつもの茶室が建っていた。天正11年(1583)に大坂城の築城を開始した豊臣秀吉は翌年1月、天守完成よりも早く、ここで茶室完成の御披露目【おひろめ】を行っている。
秀吉は、要人をもてなす場、家族のくつろぎの場として山里丸を利用し、没後は遺児秀頼により、父秀吉を祀【まつ)る豊国社【とよくにしゃ】も建てられた。
慶長20年(=元和元年、1615)の大坂夏の陣では、秀頼とその母淀殿がこの地で自害したと伝える。のち徳川幕府の手によって大坂城は全面的に築き直され、ここには一年交替で城を守衛する大名、山里加番【やまざとかばん】の主従が生活する小屋(公舎)が建てられた。(案内板)
山里口出枡形〜隠し曲輪
本丸と山里丸とを結ぶ通路に設けられた枡形で、徳川幕府が行った大坂城再築工事によって築かれた。外敵に備えるための、石組みに囲まれた四角い区画を枡形といい、特にこの場所は本丸から山里丸側に突き出していることから出枡形という。南には本丸に通じる姫門、東には山里丸に通じる山里口門があったが、いずれも明治維新の大火により、石垣上の塀ともども焼失したと考えられる。なお西は埋門となっていて隠し曲輪へと通じている。(案内板)
大坂城の本丸に唯一築かれた帯曲輪で、江戸幕府による大坂城再築時のものである。出入口が狭くて気付かれにくく、兵士を」 隠す場所だったことから、一般に「隠し曲輪」と呼ばれた。 一時期幕府の焔硝蔵(火薬庫)が置かれたこともあり、立ち入り が厳しく制限されていたことから、ここに秘密の抜け穴があるとの伝説も生まれた。なおここでは、石垣の築造を担当した加藤家(伊予大洲藩、会)、小出家(丹波園部藩・但馬出石藩、)の刻印を間近に見ることができる。(案内板)